非凡を愛す
6
「もちろん。」
正直、この状況で混乱することなく受け答えをしている私自身にも、私は少し驚いていた。このほんの数十分の間に感覚が異常なほどの速さで変化を遂げている。人間の適応力というのは恐ろしいな、とぼんやり思った。海は私から一歩体をひいて、腕をだらんと垂らして、一つ深く息を吸って、吐く。___それが起こったのは、その直後だった。
息を吐いた彼の体の淵が、唐突に輪郭を失い始めた。それまで確かに形を保っていたはずの人間の体が、まるで中身が溶け出していくように線を乱させる。色はよくわからない。その時の私に感じ取れたのは、深く、どこまでも暗い闇。ずず、と重苦しい何かを引きずるような音をさせながら、次第に海の姿は見えなくなっていく。私はただ目を見張ってそれを見ていた。逃げることは考えられなかった。なんとなく、私はそこにいなくてはいけないような気がしたのだ。海の体からあふれ出した影は、やがて部屋を覆うように広がっていった。四方に腕を伸ばして広がっていく姿は植物のツタのようにも見える。影は次第に私の足元まで迫ってきたが、そこで何かに気づいたようにぴたりと動きを止めた。無造作に広がっていくように見えた影は、しかし意識を確かに持っていたようだった。私はその陰のためらうしぐさに見覚えがあった。
(初めて手をつないだ時とそっくり……。)
付き合い始めても海は恋人らしい距離感が苦手だったのか、あまり体を触れることはなかった。今となってはそれは彼が宇宙人で、恋人同士の距離感なんてものははなから彼の頭の中で理解できるものではなかったからなのだと気づけたが、その時の私は高校生でもありえないほどの奥手さに少し辟易していた。
「手くらい、何も言わないでもつないでいいよ。」
二人で横に並んで歩いているとき、私が突然そういうと海は少しびっくりしたように体をはねさせて、ためらいがちに手を差し出した。でもやはり海はすんでのところで動きを止めて、代わりに蚊の鳴くような小さな声を出した。
「……きみに、嫌われたくなくて。」
その言葉を聞いた時の私の驚きと言ったら!彼は私が思うよりも、もっとずっと臆病なのだと、その時に気が付いた。だから私は、自分から手を差し出して、彼の手の甲にそっと触れた。
「大丈夫だから、繋いで。繋いでくれないほうが、さびしい。」
私がそう言葉を重ねて、ようやく彼が私の手を握ってくれた時の、あの体温を私はまだ覚えている。
頭からあふれ出思い出から現実に引き戻される。目の前の陰には海の姿なんてもう全く残っていなかったけれど、きっとこれはやはり海に違いないのだ。私はそう自覚せざる終えなかった。私はしばらく、ためらいがちに同じ場所でうごめいている影を見た。悲しいくらいに海そのものだった。私は影がとどまるその場所を見やって、口から自然と言葉があふれてきた。
「いいよ。触って。」
びくり
わずかに震えたその影は、確かに私の言葉を理解したらしかった。ずずず、とふたたびゆっくりとした動きで、重い音を響かせて影は私の目の前まで迫る。ツタのように伸ばされた細い先が、私の手と頬を覆った。その感触を何といえばいいのかはわからない。ただ何か質量をもったものがふれた、という漠然とした感覚だ。しかし、それ以上にただ一つ確かなものが、そこにはあった。
「あったかい……。」
無限の冷たい闇のように見えたそれは、穏やかな熱を秘めていたのだ。私はその熱を感じるように、影の上から自分の手を重ねた。あたたかい。私は、この暖かさを知っていた。
(どうして……。)
どうして、こんなに、どうしようもないくらいに。どんなに形が変わっても、あなたは『海』なんだろう。間違えようもないほどに何度も味わった熱が、今もなお私を包んでいる。ぎこちないその動きも、この熱も、触れるときのやさしさも、寸分狂わず海そのものだ。それがもうどうしようもなく、私の胸を締め付けた。こんなに見た目は違うのに。彼のあの微笑はどこにも無いはずなのに。なのにやはりこの影は、彼は、形を変えてもなお私に微笑んでいる。それがどうしようもなく、この得体のしれない生命をいとおしく感じさせた。影を感じるように撫でると、遠くのほうでまた何かがうごめいた音がした。ふと、そのほうに目を向けると、ほんの一部分だけかつての人の形を取り戻した海がいた。顔の半分しか戻っていないけれど、それでも彼が眉をひそめながら泣きそうな顔をしているのが見える。途端、私の口はまるでひとりでに動き出すように言葉を紡いでいた。
「つれていって。」
