非凡を愛す

5

『凪ちゃんが、僕を起こしてくれたんだよ。』

 たとえそれが私の記憶に残っていようがなかろうが、そんなことは関係ない。私はきっと私自身の手でもって、彼の意識を目覚めさせ、その心臓に血を流し、感情と呼ばれる器官を動かした。自他も曖昧な星からやってきた彼に、私は自分でも図らずして『愛』を自覚させたのだ。私が彼に言った一言は、私が思う以上に彼にとって大きな衝撃を伴っていることは容易に感じることができた。「あなたが生まれてきてよかった」と、そう人が言われた感じるような、そういう感情。柔らかい毛布に包まれるような、脆い熱に包まれるような、筆舌に尽くしがたい幸福と彼が感じたその感動はきっとよく似ている。そう思うとどうしたって私は彼に自分が与えたものの大きさを自覚せざるを得なかった。ただの平凡な人間だった私が、一つの生命に、しかも、宇宙人に、新しい感情を教えたのだ。衝撃だった。言い知れぬ感情が私の体に満ちていく。それはわたしに今までにないような充足感をもたらした。けれど同時にそれが私にとってあたたかければあたたかいほど、心の中に確かに根差した怒りはその輪郭をよりはっきりとさせていく。

「……なんで。」

 やっと出せた私の声は、自分でも驚くほど震えて弱々しかった。
「なんで今になって……もう、もういなくなっちゃうのに。どうしようもなくなっちゃうのに……今そんなことを言ったの?この星からいなくなったら、私の記憶でも消すつもり?それなら何言ってもいいって思ったの?もし、もしそうじゃないとしたらあなたには……海には私が、そんなことを言われてなんとも思わない人間だって、そう思われてたってこと?」
 再び言葉を滔々とあふれさせた私から、海は今度こそ目をそらさなかった。変わらず瞳を濡れさせながら、それでも私のほうをしっかりと見ていた。その顔は真剣で、けれど今まで何度も見たあの小さな微笑みが浮かんでいる。それがさらに私の中に押し寄せる、増幅していくやるせなさを浮かび上がらせた。
「ちがうよ。これは僕のわがままだ。僕は、たとえそれがどれだけ凪ちゃんを苦しめることになっても、凪ちゃんに、全部を打ち明けてしまいたかった。」
「本当にわがままだね。」
 つっけんどんな声が出た。海はその声にさえ動揺した様子を見せない。いよいよ私は彼が何をしたいのか、何を考えているのか、てんで分からなくなってしまった。
「うん。」
 海はまた一言そう言った。その言葉を聞いた途端、なんだか私の中で膨張し続けていたいろんな感情が急に動きを止めて、そして次第にしぼんでいくような気がした。そこにあるのは何だっただろう。絶望か、諦念か。私はまだ自分があまりにも惨めで、ちっぽけで。彼のその微笑みに、その声の深みに覆われつぶされてしまうような、そんな不安もあった。そしてやはり激情の後から押し寄せてきたのは、どうしょうもない虚しさだった。今さら言葉を重ねたところで何も変わりはしないのに。彼はもうすぐここを去って、私は長年付き合った恋人に振られたただの女になるのに。もしかしたら、その存在さえ忘れ去ってしまうかもしれないのに。頭がくらりと傾くような、そんな錯覚があった。
「……私は海のこと、ほんとに何も知らなかったんだね。全部、嘘だったんだ。」
「本当のこともたくさんあったよ。一緒にいると安心したこと、歌が好きなこと、本を読む凪ちゃんの声が好きなこと。凪ちゃんが作ってくれるご飯が宇宙で一番好きなのも本当だった。」
「でもきっとそんなのすぐ忘れる。その姿だって本当じゃないんでしょ?」
 海のその声色で、どれだけ言い募ったとしても大して意味がないことを知ったところで、やはり私のこのやり場のない感情を向ける先は彼しかいない。海は私の言葉を、私自身さえも全て肯定するかのようにやはり、柔らかく微笑んでいた。だから私は少し、彼を困らせてやりたかった。
「……見せてよ。海のほんとの体。どうせ全部打ち明けるなら、姿も見せたって変わらないでしょ。私、忘れちゃうんだから。ね、いいでしょ。」
 そう無理に言って、私は彼の彼の腕から手にかけてのあたりを見やった。宇宙人の姿ってどんなのかしら。ちょっとだけおかしくなってしまっていた私は、そんな純粋な興味さえ抱いているらしかった。彼の手に触れないまま、その感触を思い出す。少し骨ばった彼の手は、真冬だって関係ないぐらいにいつも暖かかった。海はやはり私の言葉に少し眉をひくつかせて、動揺を表す。笑ってやれればもっとよかったのかもしれないけど、なぜかそれはできなかった。海は何かを嚥下するように喉を動かすと少しうつむいて息を細く、長く吐き出す。そうして少しためらうような目で、私を見た。
「……ほんとうに、みる?」
「うん、見たい。」
 彼の問いに私はすぐさま答えた。
「自分で言うのもなんだけど……えっと、たぶん、相当、びっくりすると思うよ。」
「今日はもうずっとびっくりしっぱなしだよ。」
 もうこれ以上驚くこともないだろうという自信が、こんどこそあった。たとえそれが巨大な虫だとか、もしくは形をとどめないスライムだとか、もしくはそのかけ合わせだったとしても、もう驚かないだろう。私にとって宇宙人なんて未知の存在なんだから、初めから何でもありだ。地球の道理の外の存在なんだから、どんなことだってありうるだろう。海はそれでもやはり気乗りしない、というよりも何かを恐れるような顔をしたが、それでも彼から目をそらさない私に、あきらめたような顔をした。
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