コール・マイ・ネーム

第9話

 夜通し車を走らせれば、気がつけば朝になっていた。車を止めて、たどり着いた場所に一度深く息をつく。横を見れば、ルイはまだ寝ていた。ルイの眠っている顔だけは、どれだけ世界が変わっても、変わることはなかった。今思えば、それこそが自分にとって何よりの救いだったことがよくわかる。車から出て、助手席のドアを開けた。
「ルイ、起きて。ついたよ。」
 もう彼を、エルとは呼ばなかった。軽く体を揺すってやれば、ルイは次第に目を開いた。
「おはよう、ルイ。」
 寝ぼけ眼のルイは、その声に今までのように笑顔で応えることはなかった。けれど僕が手を差し出せばルイはそれに大人しく捕まる。車からゆっくりと降りる。地面は柔らかい草で、裸足のルイは地面を二本の足で踏み締めた。
「こっちだよ、ルイ。」
 ルイの手を引く。一歩、二歩、三歩。辿々しい足取りで、ルイは歩いた。僕はそれを支えるように手をひく。緩やかな丘を登った。空はゆったりと白い雲が流れる春の日和で、降り注ぐ暖かな陽がルイの肌を照らした。
 僕はやがて、ある場所で足をとめた。

 そこには、幹の細い、一本の桜の木があった。

 僕は丘から辺りを見渡した。丘の向こうには、昔見た時と変わらない、一軒の小さな家があった。何も変わらない景色が、まるで世界から取り残されてしまったかのように、そこにあった。今やこの景色を覚えているのは、僕だけなのだろう。けれど、それでもいいと思った。たとえこれが果てしなく自分勝手な自己満足だったとしても、もう自分の行動を迷うことはなかった。
 丘を降り、かつて暮らしていた家へと向かおうと、僕は再び歩き出そうとした。……けれど、それは叶わなかった。
「……ルイ?」
 ルイは、一向に歩き出そうとしなかった。手を引かれる感覚に振り返れば、ルイは桜を見上げたまま、立ち尽くしていた。春風に靡く髪が、桜の花びらと混ざり合って春に溶け込んでいく。見上げた黒の瞳には、春の光と桜が映り込んでいた。
「きれー……。」
 耳に流れ込んできた声に、耳を疑った。けれどそれは間違いなく、ルイの声だった。
 ぶわ
 春の風が僕の後ろへと駆け抜けていく。僕は胸から喉へと何かが迫り上がってくる気がして、すっと、息が詰まった。
 ルイが、微笑んでいた。
 それはあの場所にいた時のような、おぼつかない笑顔ではなかった。口角をやんわりとあげ、目尻を微かに緩ませ、ルイは桜を見て、笑っていた。
 ぎゅう
 僕とルイが繋がっている手に、力がこもった。ルイが、他でもないルイが、僕の手を握り返したのだ。目を見開いて、目の前の光景を焼き付けんばかりに見つめた。
「……きれい、だね。……シド。」
 僕の手を握り返したまま、ルイは桜の吹雪を瞳に映しながら、そう微笑んだ。
 ――はじめまして、シド……!
 あの時。はじめて、この世界には愛というものがあることを知った。そして、今。すっかり変わってしまったのに、同時に何も変わっていないような、そんな君の微笑みを見て。
 僕は初めて、愛というものの輪郭をみた気がした。
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