コール・マイ・ネーム

第8話

「では、始めよう。」

 シドが廊下をかければ、その先ではすでにことは起ころうとしていた。数人の研究者がエルが収容されている部屋の前に立っている。彼らの手にあるトレーには点滴と注入される予定の薬品が乗っていた。部屋の向こうでエルは、すでに深い眠りに落ち、いつもと変わらぬように膝を抱えて柔らかい毛布の下で眠っている。モニターに映し出されたバイタルを見て、彼が目覚めないことを確認したのだろう。うち一人の研究者が、ドアノブに手をかけ部屋に入ろうとした。瞬間、彼らの後ろから誰かが書けてくる足音が響く。
「なっ、ロイ!?」
 その姿を認めた職員は悲鳴にも近い声をあげた。その声に反応してその場にいた職員は皆視線をシドに向けた。しかしシドはそんな視線などどうでもよかった。シドはただ足を一直線に方向をきめてかけていく。やがてその視線の先を見た研究員は、思わず唖然とした様子で口を開いた。
 シドは叫ぶ。

「ロイじゃない。」
「僕は、シドだ!」

 そしてシドは、壁に拳を打ち付けた。シドの拳の先にあったのは、火災の際に押される非常通報ボタンだった。
 ジリリリリリリ!
 けたたましい音が鳴り響く。その全てが一瞬の出来事のようで、シド以外の誰も、体を動かすことができなかった。それに研究員たちが気を取られている間に、シドは持っている鍵を使い、扉の先へと向かった。
 扉の先で、ルイは突然響き出した激しいサイレンの音に反応したらしく、まだ寝ぼけ眼のまま、モゾモゾと体を動かしていた。
「ルイ!」
 シドは叫ぶ。その前で彼を呼んだのはいったいいつのことだっただろう。ルイは状況が理解できないようで、いつものように自分を起こしにきたのだと勘違いしているようだった。けれどシドにそれを機にかけるような余裕はない。シドはすぐさまルイを両腕で前に抱え、少し無理やりルイの腕を己の首に回して持ち上げた。そしてそのまま布団も同時にシド自身の頭にかぶせた。部屋の外は、シドが鳴らした火災警報器の反応により、上からスプリンクラーが水をばら撒いていた。そして先ほどまでそこにいた研究員は、焦った表情で体を不自然に固まらせ混乱状態に陥っていた。
 機械であるアンドロイドにとって水は天敵だ。万が一体内に入り込んでしまえばショートしてしまう。シドもルイの食事でミルクを飲ませてやる時は、必ず手袋をはめていた。今は代わりに綿の詰め込まれた毛布で体を守り、廊下をかけていく。水から逃げられないでいる職員は一体、また一体とバチバチッと鋭い音をさせながら床に倒れていった。夜の時間帯は退勤してしまった職員も多く、さほど多くの人間は残っていない。シドはルイを抱えて施設の外を目掛けてひたすらに走る。やがて後ろの方からは、騒ぎを聞きつけたのか警備員の忙しない足音が聞こえたが、近くにあった椅子や棚を蹴り倒して進んでいった。シドは必死だった。彼の目にはもう、目の前の景色しか見えていなかった。先のことなんて何も考えていられなかったけれど、ただ唯一、この場所を離れることだけに全ての意識を注いだ。
 施設の建物から出れば、車がある。よほどのことがなければシドも使うことがなかったが、運転の方法ぐらい知っているし、ライセンスもある。施設の外は夜明けの足音を知らせる薄暗い空が広がっていた。
 ビー!ビー!
 許可証なく施設の外に出たからか敷地内全体に鳴り響くほど大きなサイレンの音が響き渡り始めた。毎朝と同じアナウンスの声が警告を告げるが、何を言っているのかすらシドには考えられない。心臓も肺もかりそめのものでしかないのに、今はそれがまるで本物であるかのようにシドを焦らせた。視線の先に、印のない無地の車が停まっているのが見れた。それに喜ぶよりも前に、シドは足を走らせる。後ろから響いてくる微かな足音に追っ手の気配を悟った。初め被っていた毛布はとうに脱げた。シドは無地の中型車につけば、その鍵が開いているのを確認し、助手席のドアを開けすぐさま腕に抱えていたルイの体を急ぎながらも細心の注意を払って座らせた。後ろの足音がさらに大きくなる。シドは助手席のドアも閉め、その後すぐに自分も車に乗り込んだ。久しく車を運転することはなかったが、なぜか体はその方法を知っていた。エンジンをつけ、勢いよくアクセルを踏む。車は唐突に走り出した。
 タイヤが道路を擦るけたたましい音が耳をつんざく。ふと視界の端にルイの体が揺れたのに気がついて柔く抑えた。車は人をたやすく遠ざける。後ろに怒号と叫びとサイレンの音を聞きながら、シドは施設から飛び出し道路に出た。
 施設は木の多く植えられた片田舎にあり、あたりには一台の車もなかった。車を走らせて仕舞えば、少し経つ間にも辺りは明かりの少ない道路になる。なぜか追手が迫ってくることはなかった。彼らは諦めてしまったのだろうか。それとも、たとえ回復しようとたった一人の人間など脅威に値しないという彼らの驕り高ぶりか。そんな考えが頭をよぎるが、今のシドにとってはそんなことなどどうでもよかった。
 車が走る音だけがシドの耳に響いた。そしてその時、思考が冷静になり頭が冷えていくのがわかった。
 残ったのは後悔ではなかった。シドにあったのは、いいしれぬ胸が空く感覚と、ひどい疲労だった。施設はこれからどうするだろうなどと、考えることもなかった。今まで味わったことがない、不思議な感覚だった。
 車の速度を緩めながら、シドは、その時になって初めて、助手席に乗ったルイを見た。
 あれほどの場所を駆け抜けたのにも関わらず、強い睡眠剤のせいか、ルイは一度目覚めたはずなのに今はまたこんこんと眠っていた。その寝顔に苦しみはなく、本当にただ心地よく眠っているようであった。恐れなど知らないような顔だ。車の後部座席に、薄いながら毛布があることをミラー越しにシドは認めた。そして車の速度を緩めながらそれをとり、ルイの体にそっとかけてやった。ルイが一度身を捩った。シドはその様を視界の端で見ていた。赤信号にあたり、車を止める。安らかに眠るルイの姿を見ているうち、シドはいつの間にか自分が涙を流していることに気がついた。
「ルイ……!」
 噛み締めるようにその名を呼び、ルイの薄い肩に力なくシドは頭を擦り付けた。ルイの体は健やかに息をし、ゆっくりと上下していた。信号が青になる。シドは思い直したように車を発進させる。その瞳に迷いはなかった。これから向かう先を、シドは迷っていなかった。
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