コール・マイ・ネーム
第4話
「エル、ちょっと待っててね。」
理解できなかったとしてもこれはなんだか癖になってしまっていて、一応そう言って僕はエルに背を向けた。その時だった。
ぐい
後ろから何かに引かれるような抵抗感を覚えて、僕は立ち止まる。そして自分でも驚くような速さで後ろを振り向いた。何が起きたのかわからなかったのだ。
そこには、エルがいた。
僕の白衣を両手に掴んで引き、縋るように顔を埋める、エルがいた。
ざわ
胸の辺りにそんな音がよぎった気がして、突然僕の体は硬直してしまった。喉がひくりと引き攣ったような声が出せない。エルが自発的に動くところを、僕は今まで見たことがなかった。僕に手を引かれないと歩けなかった。僕が支えないと立てなかった。エルは僕が何か助けないと、何もできなかった。のに。
「エル……?」
やっと出た声で、そうエルの名前を読んだ。エルは微動だに動かなかった。部屋の向こうにいる職員はすでに異変に気が付いているのだろうか。向こうの音はこちらには聞こえないからわからない。しかし、だとしてもきっと何が起きているか理解などできていないだろう。
決して振り解けないほどの力ではなかった。優しく手を重ねて、指を一本一本解いて仕舞えば、すぐに解けてしまうようなそんな、あまりに頼りなく、脆い力だった。けれど僕は、それをすることができなかった。座ったまま僕の白衣を手繰り寄せ顔を埋めるエルを見る。顔は白衣に隠れて頭しか見えない。次の手に僕は迷った。そして、またエルの名前を呼ぼうとした。けれど、それはできなかった。
「し、ど」
エルが、声を出した。
「…………は?」
ガシャン
いつの間にか手の力が抜けて、僕は持っていたプレートが落下する音を遠くのように聞く。惚けた声が僕の口から漏れた。
「しど、し、ど、シド」
エルから出た声は止まらない。せき止められた水があふれだすように言葉は彼の口から流れ続けた。何度も何度も何度も同じ単語を繰り返す。それと同時に、微かに嗚咽が混じり始めた。
うわぁん
しまいには、エルはそう子どものように大声で泣き出してしまった。僕はまだ動けない。何をしたらいいか、頭ではわかっているのに。いますぐ声をかけて、背中をさすって、涙をぬぐってあげなくちゃいけない。なのに、体が言うことを聞いてくれなかった。僕の白衣に顔を擦り付けたまま、エルは泣いた。泣き続けた。何分経っただろう。数分か、それとも十数分か。床には僕が落としたコップや皿が転がっていた。エルは涙を流して泣いた。僕は固まったまま。その状況がずっと続いて、長い間大きな声を出すほどの体力がないからか、エルは次第に、その声を弱まらせた。代わりにしゃっくりをあげて息をひきつらせながら、それでも「シド」と言い続けた。 そしてついに、エルは力尽きたように眠った。
その瞬間、部屋の外の方にいた研究員たちが激しく顔を顰めて僕の方へとやってきた。音が通らないモニター越しで状況を観察していた彼らは、エルが僕になんと言って、なぜ泣いたのか、それを問い詰めているらしかったが、僕にだってそんなことはわからなかった。
エルが動いた
エルが声を出した
エルが泣いた
誰の指図設けることなく、ひとりでにエルが動き出した。それはつまり、彼が――ニンゲンが、意思を、持ってしまったということだ。それに伴い彼の脳は外を学習して今以上に彼の体を解き放つだろう。一度はじまってしまった本能的とも言える行動は、アンドロイドでさえも止められない。
それは、アンドロイドたちにとって由々しき事態であることに違いなかった。
でも僕にとって、そんなことはどうでもよかった。
「シド」
エルがそう呼んだ声が反芻される。
「シド」
ないはずの脳が刺激されるように痛む。視界が眩んで、かりそめの機能としてでしかない呼吸が浅くなる。
……昔、人間に対してアンドロイドが革命を起こす前、彼らの多くに名前はなく、シリアルナンバーと個体コードでその存在を識別されていた。その後アンドロイドが革命を成功させ、人間の社会を模倣した新しいアンドロイド社会を形成する段階になって初めて、かつて革命を成し遂げたアンドロイドたちは自身に相応しいと考える名前をつけ始めた。
けれど。
「シド」
たった、一体だけ。
革命が起こる前、アンドロイドが人間の支配下だった世界で、唯一、個体コードとは別に、呼ばれる名前のあったアンドロイドがいた。
『シド』
そのアンドロイドは、人類が初めて開発した完全自立行動人型アンドロイドだった。彼は開発された科学者自ら名を与えられ、それ以降、彼のアンドロイド開発に長年貢献し続けた。彼をはじめのデータとして、のちのアンドロイドは多く創造された。そして、時は流れ。アンドロイドが支配するようになった世界。この世界を実現させる発端ともなったアンドロイドは、姿を変え、それまで呼ばれていた「シド」という名も変え、こう名乗るようになった。
――『ロイ・モスリー』と。
