コール・マイ・ネーム

第3話

 アンドロイドが中心となったこの世界になってから長い…といっても十年ちょっとといったところだけど、とにかく時がたち、一般に生活を送るアンドロイドの大半はかつて自分たちを作り出した存在のことを忘れてしまった。彼らにとって「ニンゲン」は珍しい「動物」の種類のうちの一つでしかない。同じ施設の別のエリアで飼育されてるパンダと同じようなものだ。誰も現在の自分達の位置に人間がいたなんて考えるものはいない。しかし、ある一定数の――と言っても少数でしかない――アンドロイドは、己の知識的好奇心に従い、人間を学問の発展の材料として研究することにした。彼らは『革命』の時代に活動していたがすでにボディが損傷してしまっていた同胞のメモリを活用し、現在の世界に至るまでの記憶を搭載したアンドロイドを開発し研究所の職員とした。そうしてこの施設が出来上がった。エルはその過程の中で、学問の発達のために唯一生かされることになった人類だった。
「エル」
 回想を頭の端で浮かべながら、僕は目の前にいる彼にカップを手渡した。少し大きめのカップに入っているそれは、温められたミルクだ。
 初めて彼の世話をし始めた時から、彼の食事はいつも決まっていた。一切れのパンと、季節に沿った果物、そして温められたミルク。自分で食べ物を手に取ることのできないエルに、僕はそれらをゆっくりと与えてやった。それだけの量の食事で、エルは満足そうに笑うのだ。
 僕にカップを支えられながらミルクを嚥下するエルの喉の動きはいつも通りだ。それで不調がないことを確認する。口からカップを離すと、口はしに少し滲んだミルクの跡を布で優しく拭き取った。エルはそれにまた満足そうにへにゃりと笑う。ガラス越しに彼を見にきていた観客たちの喧騒が耳に絶えず響いた。エルはとても美しい見た目をしているから、この施設の中でも特に見にくる人が多い。人気者だ。
「エル、手を振ってあげて。」
 僕がそう呼び掛けても、エルは本当の意味でその言葉を理解しない。ただ僕が手を促してガラス越しにいるアンドロイドたちの前に向けてやれば、もう習慣化された行動に体が慣れたのか力なくその手を振った。また声が上がる。ひとしきり食事を終えれば、エルは瞼を重くする。僕が柔らかい芝のところに寝かせてやれば、すぐにその瞼は閉じられ、代わりに寝息が聞こえた。僕はそれを確認すると、空になったエルの食事が乗ったプレートを持って部屋を後にする。エルはこうして、日常のすべての行動に僕の補助を伴って生きている。食べるのも、眠るのも、トイレに行くのも、全て僕の助けを必要とした。研究のため対象には大人しくいてもらう必要があり、自立行動を制限しているせいだ。
 部屋を出て、その側にあるシンクにプレートを置いておけば勝手に回収される。そうして朝の習慣を終えてから、本格的に僕の仕事が始まるのだ。展示ケースとしての部屋の隣には、大きなデスクがついている。そこでエルの健康状態や様子をモニターなどで管理しつつ、書類仕事などの一般の業務をこなしていた。
 こんな生活も、始めてからいつの間にかかなり長い年月が経っていた。エルがここにやってきた時はまだ二十になるかならないほどの年齢だったと僕は記憶している。変わらない業務を淡々とこなし、データを提出し、この施設の本来の目的でもある「研究」に貢献する。これと言って優秀な部分もない僕は、エルになつかれているという理由だけで世話役をしているエルを生かすためだけの存在だ。今までと同じように、この先何年も、人間であるエルが死ぬまで、もしくは、僕のボディのどこかにガタがきて壊れるまで、この日常は続くような気がした。…………そう、思っていたんだ。
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