コール・マイ・ネーム

第2話

「ロイ!起きろ、もう開園するぞ!」

 書類が散らばっている自分のデスクに突っ伏したまま寝ていると、同じく夜通し資料を使いながら仕事をしていた同僚に叩き起こされた。背中に紙束をぶつけられた痛みを感じながら目を開けると、椅子から立ち上がり、床に放り投げられてしわくちゃになっていた白衣に袖を通す。軽く皺を伸ばして、前のボタンを締めた。
 朝9時30分から、僕の仕事は始まる。白と透明なガラスが基調の建物の廊下を歩いていると、いつも通りのアナウンスが聞こえた。

「職員の皆さん、おはようございます。現在9時30分、開園時刻となります。皆さんそれぞれ、今日も己の業務に邁進していきましょう。」

 右から左へとその声を聞き流し、僕はいつもと同じ道を辿っていく。先ほどまで忙しなく行き交っていた廊下に、突然気配がなくなる。それも無理はない。この道を普段から通るのは、僕と、後は数体の同僚だけだ。廊下の先には、鉄製の壁に埋め込まれたかのようなドアがあった。そのまた鉄製のドアノブに慣れた手つきで白衣の中に潜ませている鍵をさし、ドアの鍵を開ける。

 ぎい、と重苦しい音がして、扉が開いた。
 その先にあったのは、1つの部屋だった。とは言っても、それはよく言う「部屋」とは違う。どちらかといえば、「ショーケース」のようだ。ガラス張りの壁、床はタイルではなく遺伝子操作で作られた枯れることのない芝、植えられた常緑樹、暗い緑色のガーデンテーブルとガーデンチェア。それらをくぐり抜けて、僕はその部屋の奥へと向かう。意図的に多く植えられた植物の塊の中に穴のような場所があって、そこには、柔らかい綿の詰め込まれた毛布が入っていた。よく見なければわからないが、不自然な膨らみがある。
 僕はしゃがんで、その毛布に手をかける。そしてそれを優しくめくった。
 毛布の下にいたのは、一体の生き物だった。病衣を着て、艶のある長い黒髪を柔らかいツタで作られた枕に広げ、膝を抱えるようにして眠っている。肌は不自然なほどに白く、身長から年齢を推測するのが困難なほどに、体は細かった。
「エル、起きて。朝ご飯の時間だよ。」
 僕がそう声をかけると、閉じられていた彼の瞳が、ゆっくりと開けられた。磨かれた炭のような、鈍く、けれど深い艶を放つ不思議な色だった。
「おはよう、エル。」
 僕がまたそう声をかければ、彼の瞳はゆっくりと僕の方を向き、そして最後には柔らかく、にこりと微笑んだ。僕が手を差し出せば、彼はその手をとってゆっくりと立ち上がり、僕に手を引かれて部屋の真ん中の方にあるガーデンチェアとテーブルのところまで辿々しく歩いた。
 これが僕の日常。毎日9時45分、この部屋に眠る彼を起こす。朝食を与えるために。

______ガラス越しに、たくさんの視線を浴びながら。

「ママ!出てきたわ!あの子が「ニンゲン」なのね、とってもきれい!」
 ガラス越しに、幼い少女がそう喜ぶ声が聞こえてきた。ちらりと僕は、ガラスに目を向ける。
1組、2組、3組…無数の好機の目が僕に__彼に、注がれている。
 僕の手を頼り椅子に腰掛けながら、彼はもう一度僕を見て、まるで反射行動のようにおんなじ笑みを浮かべた。
『エル』ヒト科ヒト属ヒト(サピエンス)・オス
 この世界に生き残った、唯一の「人類」。ここは、日本にある世界のあらゆる動物の研究と展示を行う併合型施設。彼はそのうちの一体として、展示されている。僕は、ロイ・モスリー。東洋産アンドロイド。この施設の職員であり、世界最後の人類「エル」の世話係だ。
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