半死体の恋
第1話 名もなき美人画
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篠宮彰は、とある華族の青年であった。眉目秀麗、博学広才でおまけに父と母の唯一の子であった彼は幼き頃より父と母にそれは大切に育てられ、使用人にも慕われた。15になり立派な青年への過程を辿り始めてからは、その才ゆえに高等学校に良い成績で入り、その明るく気さくな性格ゆえに多くの友を得た。絵に描いたように満たされた日々、そして人生であった。
しかしこの青年、どれほどまでに恵まれたとしてもやはり人間というべきか、彼は完璧な存在ではなかった。いや、ただしく言うならば、「彼からしたら」自らは完璧な存在などではなかった?それは例えば豹変するように怒る癇癪持ちだとか、他より体が弱いとかそう言った類のものではない。あえて言葉にしようとするのならば、灰色に埋め尽くされた部屋とか、真珠の耳飾りをつけていない少女だとか、そういった今ひとつパッとしない、物足りない、満たされない感覚であった。蔓延する穏やかな日常に贅沢なことに飽きがきたのか、それともものを得過ぎた者のみが罹る特有の心理的な病か。それが何かはほとほと知らねど、やっぱり彼は満たされない。青年の心は虚空を漂っていた。そしてそれを自覚すればするほどに、それを埋めようとするが如く彼はあるものにのめり込んでゆくこととなった。
芸術だ。
絵画、詩、小説、短歌、俳句、漢詩。表現の形を問わず、彼は芸術を愛した。中でも特に惹きつけられていたのは絵画で、当時有名だった西洋画家から江戸風情溢れる浮世絵まで幅広く好み、時には気まぐれに自分で筆を動かすこともあった。その作品の大抵は描いたそばから部屋の隅や蔵に押し入れられたが、生まれつきの才かそれとも育ちゆえか只の高等学校生にしてはそうは思えない素晴らしい出来栄えだった。彼にとって芸術はまさしく一種の治療薬であった。緩慢とした世界から遊離し、彼は画面という境界線の先にある無限の世界を漂った。芸術を愛する心、それが自分にあることを自覚することで、彰はまだ自分がまともであることを知った。その支えのおかげで彼はそれなりに現実を生きていくことができたのである。
と、ここまでこんなふうにたいそうに言ったものの、それが実に彼の人生において劇的な変化をもたらしたかといえば、そういうわけでもない。のめり込んだと言ってもそれは彼が現実に自分を繋ぎ止めるための息抜きのようなものであり、あくまでひどく没頭している趣味とも言うべきものでしかなく、同じような趣向を持つ人間と感覚を共有したり語り合ったり時に恥ずかしげに自身が気まぐれに描いた作品を見せ合ったりするのがせいぜいであった。彰の体と精神は変わらず現実にあった。彼は結局芸術好きな金持ちの青年でしかなかった。例え好んでキャンバスに筆を滑らせても、それはあくまで気まぐれによる何の責任もない逃避だからこそ彼にとってはひどく魅力的であったのだ。
そしてそれはそれから先も変わらぬ事実であるはずであり、そうあるべきであったのだ。なぜなら彼が、彼自身が、紛れもなくそれを願っていたはずだから。
しかし…ああ、それは何というのだろう。あのすさまじい引力を、なんと表現すればよいだろう。
16歳の彼はその日、出会ってしまったのだ。己を否応なく惹きつけるそう、あれは____。
「運命だ。」
